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地産地消の瓦

瓦の歴史

瓦は中国発祥で紀元前1100年頃の西周の時代に誕生しました。
日本に瓦が入ってきたのは飛鳥時代のことで、百済(朝鮮)から瓦の技術者が来日しました。
粘土から瓦を成形する方法と瓦窯の作り方、瓦の焼き方を習得し、日本でも瓦作りが始まりました。

奈良時代に入ると寺院、宮殿、役所に瓦が用いられるようになります。
聖武天皇が全国に国分寺を作るように命じたことから、瓦の需要も高まりました。
平安時代の瓦はやや衰退期に入ります。
主な原因は戦乱です。
山中に寺院を建立することが増えて瓦の持ち運びができないことや冷え込みの厳しい山の気候に瓦が適応できなかったことも影響しています。

鎌倉・室町時代になると瓦の生産が盛んになります。
仏教の影響で寺院が建立され、日本独自の瓦も作られるようになります。
江戸時代には一国一城令が出され、城の建設が行われなくなったことから瓦の使用が減少しました。
武家と商家の華美な生活を抑制するために瓦葺きも禁止されます。

瓦のかわりに茅葺と板葺が用いられた結果、火事が増えることになります。
瓦葺きの禁止により大火で住居が多数焼失し、犠牲者も数多く出ました。
1720年に徳川吉宗は禁止令を廃止し、瓦葺屋根を奨励します。

本瓦葺き(丸瓦と平瓦とを組合せた瓦の葺き方)は重厚で城郭や寺院向けの瓦であったため、平瓦と丸瓦を組み合わせて一体にした浅瓦が普及し始めました。
浅瓦は軽量で安く、民家にも瓦が用いられるようになります。
江戸時代中期の瓦屋根の普及により、全国的に瓦の製造が産業として確立されました。

明治時代に入ると文明開化により西洋建築が流入します。
西洋のコロニアルスタイルの住宅の屋根には、スペイン瓦等が使われています。
又、昭和に入ると瓦の生産技術が向上し、機械生産によって低コストで量産できるようになりました。

瓦の産地と特徴(三州、淡路、石州)

瓦は日本各地で作られています。
日本の三大瓦の産地として、三州、淡路、石州が挙げられます。

三州は愛知県の西三河地方の旧国名です。
良質な粘土が取れる地域で、粘土瓦の生産が日本一です。
1700年頃に三州瓦は広まりました。
三州瓦は耐火性と耐水性、強度に優れています。
寒さには弱く、寒冷な気候には向いていません。

淡路は瓦製造の歴史が長く、いぶし瓦の生産量は日本一を誇ります。
いぶし瓦とは粘土を焼いた後に灰色の炭素膜を吹き付けた瓦のことです。
銀白色の美しい瓦は建物の景観を引き立てます。

淡路瓦は三大瓦の中で最も低温で焼成されますが、耐火性と耐久性があります。
淡路では釉薬瓦と無釉薬瓦も作られます。

石州は島根県石見地方の旧国名です。
石州瓦は高温で焼成され、色が特徴的です。
瓦の原料の粘土に含まれる鉄分の量で赤みを帯びた色をしています。
硬度が高く丈夫で、寒さや塩害にも適応しています。
石州瓦は寒冷な地域や沿岸部で用いられます。

瓦は地産地消でつくられていた(京の瓦窯元)

瓦は地域ごとの風土、気候、特色を活かして作られることが多く、瓦の窯元や製作工場が昔は全国各地にありました。
屋根の形状や大きさ、建物の景観、宗派、使用目的などによって使い分けられることもある瓦は地産地消で作られていました。
瓦が地産地消である理由は、瀬戸物で割れやすく重さがあるため長距離運搬に向いていないことも関係しています。

京都は千年以上もの間、都が置かれて寺院や役所が数多く存在したこともあり、瓦が数多く作られてきました。
794年に都として開かれた平安京には百万枚以上もの瓦が用いられたと言われてます。
当時の窯では西賀茂瓦窯が有名です。
数年前に見つかったの大山崎瓦窯でも平安京に瓦を提供していたと推測されています。

京都の瓦は京瓦と呼ばれ、700以上にも及ぶ種類があります。
一般的な地瓦に加えて鬼瓦と軒瓦が多く生産されています。
京都の街並みで見かけることがある鍾馗(しょうき)も屋根瓦の一つです。
鍾馗は厳めしい顔つきをしていますが、厄除け・魔除けとして親しまれています。

京都の瓦の歴史は6世紀頃から現在まで続いています。
窯元は代々引き継がれ、古い窯元は数百年になります。
明治以降新しく登場した窯元もあります。

京都の瓦の窯元と嵯峨の窯元(甍技塾・徳舛氏記述)

京都に歴史的建造物としての意匠が感じられる建物が嵯峨から向日町あたりにかけての一帯に存在します。
屋根素材には茅葺と瓦葺が用いられ、庇部分が瓦葺になっています。

庇(ひさし)は窓や入り口などにつけられた小型の屋根です。
外観はほとんど茅葺屋根で、下部に瓦屋根が少し見られます。
屋根の形は入母屋造と切妻造が混在した珍しい形をしています。

入母屋造(いりもやづくり)は代表的な屋根形式で寄棟の上部を切妻にした形で、神社・仏閣などに多く見られます。
切妻造は2面で構成されたシンプルな形です。

江戸時代中期に作られた嵯峨地域の古民家の瓦は、下嵯峨の瓦職人である花野九兵衛が焼いたものです。
軒先の瓦の文様は嵯峨釈迦堂清凉寺の境内の中の薬師寺本堂、亀岡市の丹波国分寺の本堂、高雄梅ケ畑の吉川邸(旧家)の主屋に使用されたものに似ています。

花野九兵衛の焼いた瓦は亀岡市の大圓寺本堂や丹波国分寺の本堂にも使われています。
嵯峨の窯元で焼成された瓦は亀岡に運ばれて建築に使用されたと推測されます。
建築材を地産地消する文化の一例と呼べるでしょう。